中東地区まちづくり協議会

1.中東地区の対象地域

日新中学校区及び名陵中学校区
町名 みもすそ川町、壇之浦町、本町一丁目、本町二丁目、本町三丁目、本町四丁目、阿弥陀寺町、中之町、唐戸町、赤間町、宮田町一丁目、宮田町二丁目、幸町、貴船町一丁目、貴船町二丁目、貴船町三丁目、貴船町四丁目、椋野町一丁目、椋野町二丁目、椋野町三丁目、大字椋野、山の口町、上田中町一丁目、上田中町二丁目、上田中町三丁目、上田中町四丁目、上田中町五丁目、上田中町六丁目、上田中町七丁目、上田中町八丁目、名池町、田中町、南部町、観音崎町、岬之町、入江町、西入江町、細江町一丁目、細江町二丁目、細江町三丁目、豊前田町一丁目の一部、豊前田町二丁目、豊前田町三丁目、細江新町、丸山町一丁目、丸山町二丁目、丸山町三丁目の一部、丸山町四丁目、丸山町五丁目、向洋町一丁目、向洋町二丁目の一部、後田町一丁目、後田町三丁目、後田町五丁目の一部、石神町、椋野上町、藤ヶ谷町、あるかぽーと、幡生町一丁目の一部、卸新町

2.人口の推移

日本の人口は、2010年(平成22年)頃をピークに減少に転じた。

一方で、下関市の人口は1980年(昭和55年)頃をピークに減少に転じており、全国平均より30年も早く少子高齢化が進んでいる。人口の減少も全国平均より高い。

下関の人口は、2035年(公共施設等綜合管理計画の終期)時点で211,970人まで減少すると見込まれる。これは、人口がピークであった時期(1980年)の65.1%にあたる。

日新中学校区及び名陵中学校区の人口は、下関市全体の人口減を上回るペースで減少している。この傾向は今後も続く者と考える。

人口の推移

3.世帯数の推移と高齢化率

下関市の高齢化率は、1980年には10.6%であったが、2000年には22.3%、2015年には33,0%と急激に上昇している。

地区別では、安岡地区(32.7%)や長府地区(33.0%)が下関市の平均に近い。

中東地区の高齢化率(36.6%)は下関市の平均値を上回っており、他地区より高齢化が進んでいる。

日新中学校区の高齢化率(37.1%)と名陵中学校区の高齢化率(35.8%)に顕著な差はないが、日新中学校区の方がやや高い。

高齢化の一方、年少人口(15歳未満)の比率について見ると、日新中学校区(10.1%)及び名陵中学校区(8.0%)のいずれも下関市の平均値(11.6%)を下回っており、少子化も平均を上回って進行していると考えられる。

特に名陵中学校区(8.0%)については、市内では豊北地区(豊北中学校区 6.4%)、内日地区(内日中学校区 6.7%)に次いで年少人口の比率が低い。

高齢化率の比較

中東地区における1世帯当たり人数は、日新中学校区が2.11人、名陵中学校区が1.88人となっている。

核家族及び独居老人の増加は全国的な傾向であるが、日新中学校区及び名陵中学校区については、特にその傾向が進んでいるものと考えられる。

1世帯当たり人数

1世帯当たり人数の比較

4.産業別事業所数・従業員数

産業構造とは、産業には大きく分けて、農業、製造業、非製造業というものがあります。
これは別名、第一次産業、第二次産業、第三次産業とも呼ばれています。
さらには、第三次産業(非製造業)を細かく分けると、金融・小売・卸売などにも分類することができます。
産業構造の構成によって、資源である「人」「もの」「金」「情報」の変化を知ることができ、中東地区がどのような方向に成長してくかを大まかに予想できます。

産業別事業所数・従業員数

5.公共施設

下関市役所(本庁舎)

下関市役所(本庁舎)  下関市役所(本庁舎)は、庁舎整備事業として2015年に新館及び立体駐車場を整備しており、本館は整備計画に基づいて改築を行います。
 同整備事業を終えた後は、下関市役所上田中庁舎のほか、下関市役所田中町庁舎・カラトピア4階など、本庁舎周辺に分散している執務室を集約する予定となっています。
 なお、第二別館は、後期までに解体する方向で検討します。

下関市役所上田中町庁舎

下関市役所 上田中町庁舎  下関市役所上田中庁舎は、築49年となり老朽化も進んでおり、耐震性もないことから、庁舎整備事業完了後は、前期に機能を本庁舎に移し、建物は解体する方向で検討します。

下関市体育館(借地)

下関市体育館  下関市体育館については、築55年となり施設の老朽化が著しく耐震性もないことから、建て替えを検討する必要があります。
 建て替えに当たっては、本市におけるスポーツ施設のあり方を整理し、PFI手法や複合化等について十分な検討を行い、適切な規模・手法を検討します。

下関市相撲場(借地)

下関市相撲場  下関市相撲場は、現在土俵の状態が悪く、使用を中止しています。
 今後は機能を他施設に移転し、建物は前期に解体する方向で検討します。

下関市火の山ユースホステル(借地)

下関市火の山ユースホステル  下関市火の山ユースホステルは、火の山公園内に位置する公共の宿です。
 築50年以上と老朽化が進んでいたため、移転改築の上、2016年3月に「海峡の風」としてリニューアルオープンしました。
 旧建物は、2016年に解体済です。

火の山展望台(借地)

火の山展望台  火の山展望台は、火の山山頂に位置し、関門海峡を一望できる等眺望も良い観光施設です。
 建物は老朽化が著しいため、2017年に解体し、建て替えに向けた作業が進行中です。
 改築に当たっては、規模を縮小するとともに、PFI手法等により民間活力を導入する方向で検討します。

王江小学校

王江小学校  王江小学校は、「下関市適正規模・適正配置基本計画」では、第2期計画期間(2015年度〜2019年度)に、名池小学校に集約を検討する計画となっています。
 なお、学校統合を進めるに当たっては、保護者や地域住民との合意に基づいて実施します。
 集約により適正配置と施設総量の縮減を図ることは、公共施設マネジメントの方針とも整合しています。
 集約後、建物は譲渡する方向で検討します。

第一幼稚園

第一幼稚園  第一幼稚園は、「下関市立就学前施設の整備基本計画」では、第1期計画期間(2015年度〜2019年度)に、市立こども園に移行する計画となっています。
 施設総量の縮減を図ることは、公共施設マネジメントの方針とも整合しています。
移行に併せて、土地・建物は譲渡する方向で検討します。


6.歴史とまちのすがた

本州の最西端
海に開き 緑に抱かれ 美味が集う
海峡都市・下関の中心がこの地区です。

歴史を秘めた街並みをたどれば 幾次代も前の旅人になれ
潮風に吹かれて海峡を眺めれば 異邦人になれる
下関はそんなまち
観て 出会って 感じて ゆっくり じっくり 歩くほどに
知らなかった下関の風貌が見えてきます

唐戸エリアマップ

7.主な名所・旧跡

(1) 旧下関英国領事館【日本遺産】

旧下関英国領事館  領事館の建物としては、現存する最古の領事館で、明治39年(1906)に立てられました。
 平成26年(2014)7月18日にリニューアルオープンし、1階が当時を再現した領事室、2階が英国風カフェ&パブ、附属屋がギャラリーになりました。
 国指定重要文化財
[交通]JR下関駅からバス7分「唐戸」下車すぐ
[休み]火曜日(祝日は開館)
[TEL]083-235-1906

(2) 旧秋田商会ビル【日本遺産】

旧秋田商会ビル  大正4年(1915)、木材取引中心の商社活動と海運業を営む秋田商会の事務所兼住宅として竣工しました。
 西日本初の鉄筋コンクリート造りのビル。
 2、3階は書院造住宅、螺旋階段で上る屋上には、日本庭園や日本家屋もある和洋折衷のユニークな建物で、1階には金子みすゞコーナーも。
 日没から22:00まで夜間ライトアップされます。
 市指定有形文化財(現在屋上は非公開)
[交通]JR下関駅からバス7分「唐戸」下車、徒歩1分
[料金]入館無料
[営業時間]10:30〜15:00
[休み]火・水曜日、年末年始
[TEL]083-231-4141

(3) 下関南部町郵便局【日本遺産】

下関南部町郵便局  現存する下関の洋風建築としては最も古く、明治33年(1900)の建築。
 国内最古の現役郵便局でもあり、登録有形文化財となっています。
 建設当初の雰囲気を残す中庭とギャラリーがあります。
[交通]JR下関駅からバス7分「唐戸」下車、徒歩1分
[TEL]083-222-0161

(4) 山口銀行 旧本店(やまぎん資料館)【日本遺産】

山口銀行 旧本店  大正9年(1920)に三井銀行下関支店として建築された県指定有形文化財。
 隣接したやまぎん資料館では、金融資料や山口県内の伝統工芸品を展示しています。
[交通]JR下関駅からバス5分「海響館前」下車、徒歩2分
[料金]入館無料
[営業時間]10:00〜17:00
[休み]月・火曜日、祝日、年末年始
[TEL]083-232-0800
[駐車場]26台

(5) 亀山八幡宮

亀山八幡宮  貞観元年(859)の創建と伝わる古社で、「関の氏神」として親しまれています。
 境内には、林芙美子文学碑、世界最大のふくの銅像、亀山砲台跡など多くの史跡があります。
 参詣自由。
[交通]JR下関駅からバス7分「唐戸」下車、徒歩3分
[TEL]083-231-1323

(6) 赤間神宮

赤間神宮  源平壇ノ浦合戦に敗れ、わずか8歳で関門海峡に入水された平清盛の孫である安徳天皇を祀っています。
 壇之浦を望む水天門は、鮮やかな竜宮造り。
 「海の中にも都はある」という二位の尼の願いを映したものと言われます。
 境内には、小泉八雲の怪談で有名な「耳なし芳一」の芳一堂や、貴重な資料を展示した宝物殿等があります。
 参拝自由。
[交通]JR下関駅からバス10分「赤間神宮前」下車すぐ
[料金]宝物殿 100円
[TEL]083-231-4138

(7) 本陣伊藤邸跡

本陣伊藤邸跡  下関を代表する旧家で、江戸時代には下関の東の本陣を務めました。
 シーモルトや吉田松陰らとの親交や、坂本龍馬が邸内の一室を「自然堂(じねんどう)」と称し、妻・おりょうを呼び寄せて逗留したことでも知られます。
[交通]JR下関駅からバス10分「赤間神宮前」下車、徒歩3分

(8) 教法寺

教法寺  萩本藩の門閥士族で結成された先鋒隊と奇兵隊は、文久3年(1863)8月16日先鋒隊の宿舎である教法寺で衝突し、先鋒隊の隊士が斬り殺されました。
 この事件後、高杉晋作は奇兵隊総督を免ぜられ、奇兵隊の本拠は一時小郡に移動させられました。
[交通]JR下関駅からバス7分「唐戸」下車、徒歩4分
[TEL]083-222-2398

(9) 日清講和記念館【日本遺産】

日清講和記念館  明治28年(1895)、日清戦争の講和会議が開かれ、下関条約が締結されました。
 その会場で使用された調度品や写真、資料などを公開・展示しています。
 国登録有形文化財。
[交通]JR下関駅からバス10分「赤間神宮前」下車、徒歩2分
[料金]入場無料
[営業時間]9:00〜17:00
[休み]年中無休 [TEL]083-241-1080(下関市立歴史博物館)

(10) 史跡春帆楼

史跡春帆楼  日清講和条約が締結された会場であり、「フグ食用禁止令」を伊藤博文が解禁した「ふぐ料理」の公許第1号店でもあります。
 「春帆楼」の名も伊藤博文の命名です。
[交通]JR下関駅からバス10分「赤間神宮前」下車、徒歩2分
[TEL]083-223-7181

(11) 金子みすゞ顕彰碑

金子みすゞ顕彰碑  明治36年(1903)、山口県長門市で生まれた童謡詩人・金子みすゞは、大正12年(1923)に下関の上山文英堂本店に移り住み、創作活動を行いました。
 唐戸界隈に点在するみすゞゆかりの場所には詩碑が設置され、みすゞの世界に想いを馳せながら散策を楽しめる「金子みすゞ詩の小径」となっています。
[交通]JR下関駅からバス5分「海響館前」下車、徒歩4分

(12) 林芙美子生誕地の碑

林芙美子生誕地の碑 出世作「放浪記」で、「私が生まれたのは下関の町である」と記した林芙美子。
田中町の五穀神社の鳥居横には「林芙美子生誕の地」碑が立っています。
[交通]JR下関駅からバス8分「西の端」下車、徒歩1分

(13) 藤原義江記念館(紅葉館)【日本遺産】

藤原義江記念館  世界的オペラ歌手・藤原義江の記念館。
 館内には、義江の美しい歌声が流れ、窓の外には関門海峡が広がります。(旧リンガー邸)
 国登録有形文化財。
[交通]JR下関駅からバス10分「赤間神宮前」下車、徒歩10分
[料金]入場無料
[営業時間]10:00〜11:30、13:00〜16:00
[休み]火曜日、第3土曜日(不定休・見学については要予約)
[TEL]083-234-4015

(14) 田中絹代ぶんか館(下関市立近代先人顕彰館)【日本遺産】

田中絹代ぶんか館  1階ふるさと文学館には、下関市にゆかりのある近代以降の文学者とその作品を、2階田中絹代記念館には、田中絹代の遺品をはじめ、出演作の台本・ポスター・スチール写真など、貴重な映画資料を展示しています。
 (建物:大正13年(1924)竣工。下関市指定有形文化財)
[交通]JR下関駅からバス7分「唐戸」下車、徒歩5分
[料金]2階 田中絹代記念館のみ有料。大人200円、小中学生100円
[営業時間]9:30〜17:00(入館は16:30まで)
[休み]月曜日(祝日の場合は開館、翌日休館)、年末年始
[TEL]083-250-7666

(15) 下関市立しものせき水族館 海響館

海響館  関門海峡の潮流を再現した大水槽や、世界中のフグの仲間の展示、世界でも数体しかないシロナガスクジラの全身骨格標本(実物)、日本最大級のペンギン展示施設「ペンギン村」など、見所いっぱい。
 イルカとアシカの共演ショーも人気です。
[交通]JR下関駅からバス5分「海響館前」下車、徒歩3分
[料金]大人2,000円、小中学生900円、幼児(3歳以上)400円
[営業時間]9:30〜17:30(入館は17:00まで)
[休み]無休
[TEL]083-228-1100

<日本最大級のペンギン展示施設 ペンギン村>

ペンギン村

●亜南極ゾーン
水深6m、水量約700tの世界最大級のペンギンプールでは、ペンギンたちの水中を飛ぶように泳ぐ躍動感ある姿を観察できます。
●温帯ゾーン
南米チリの生息地を再現した屋外展示エリアでは、生き生きと暮らすペンギンに会えます。(体験型イベントも実施)

(16) カモンワーフ

カモンワーフ  レストランや関門の海産物、お土産品など多彩なショップが並ぶシーサイドモール。
 ボードウォークからは関門海峡が一望できます。
[交通]JR下関駅からバス7分「唐戸」下車、徒歩2分
[営業時間]物販:9:00〜19:00(冬期は〜18:00)、飲食店:11:00〜22:00(一部店舗除く)
[休み]無休(要問合せ)
[TEL]083-228-0330

(17) 唐戸市場

唐戸市場  下関はもちろん、北九州の食のプロも通う卸売市場。
 小売りも行っており、一般の人も新鮮な食材を安く手に入れることができます。
[交通]JR下関駅からバス7分「唐戸」下車、徒歩3分
[営業時間]5:00〜15:00(平日・土曜日)、8:00〜15:00(日曜日・祝日)
[休み]水曜日(不定休)、お盆、年始
[駐車場]572台

8.代表的な人物 −出身有名人−

(1) 田中 絹代(たなか きぬよ)1909-1977

田中絹代  明治42年(1909)、下関市丸山町で生まれました。
 大正12年(1923)、大阪に出て少女琵琶歌劇団に入り、次の年、松竹下加茂撮影所に入所。
 デビュー映画「マダムと女房」に出演しています。
 同24年(1949)まで松竹に籍を置き、以後はフリーになっています。
 この間、「愛染かつら」で高石かつ枝役を演じ、大ヒットを得たのち、「楢山節考」など出演作は約300本を数え、大スターとして活躍。
 戦後は、演技派に脱皮するとともに、同28年(1953)には「恋文」で監督としてもデビュー、以後5本の監督作品を制作しています。
 特に、木下恵介監督の作品「楢山節考」では、自身の前歯を抜いて、おりん婆さんの役づくりに没頭し、老年に至ってますます円熟味をくわえた同49年(1974)、65歳のとき「サンダカン八番娼館・望郷」で、元からゆきさんの老婆を滋味豊に演じています。
 この作品は、次の年にベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞し、わが国映画史上最大の女優となりました。

(2) 金子 みすゞ(かねこ みすず)1903-1930

金子みすゞ  明治36年(1903)、大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)で生まれました。本名はテル。
 瀬戸崎尋常小学校を経て、大正9年(1920)に郡立大津高等女学校を卒業。在学中から同窓会誌『ミサヲ』に文章を発表し、優れた文才をほのめかしています。
 同12年(1923)、20歳のとき、母の嫁いでいた下関の上山文英堂に移り住み、間もなく西之端町にあった商品館内の同書店出張店で働きながら、ペンネーム『みすゞ』で童謡を書き、雑誌に投稿を始めています。
 雑誌『童謡』に「お魚」「打ち出の小槌」、『婦人倶楽部』に「芝居小屋」、『婦人画報』に「おとむらいの日」、『金の星』に「八百屋のお鳩」などを発表。
 以後、昭和4年(1929)までに90篇を発表しています。
 『童謡』誌上で西条八十に認められ、若い投稿詩人たちの憧れの星となっています。
 大正15年(1926)2月に結婚し、11月に長女ふさえを出産。しかし、夫に創作などを禁じられ、昭和5年(1930)2月に離婚。
 体調を崩したことと、長女を夫に取りあげられることなどの悲しみの中で、同年3月10日、自ら生命を絶ちました。享年26歳でした。
 のち児童文学者・矢崎節夫氏によってよみがえった童謡は、512編を数え、小学校の教科書にも採り上げられています。
 (写真協力・JULA出版局)

(3) 林 芙美子(はやし ふみこ)1903-1951,/a>

林芙美子  明治36年(1903)12月、宮田麻太郎の子として下関の田中町に生まれました。
 本名をフミコといい、下関と深いかかわりあいを持った現代小説かとして、彼女の存在はたいへん大きなものでした。
 幼少期、彼女は母・林キクとともに北九州の各地を転々とし、小学校1年生のなかばに下関に帰って名池小学校へ入学、ここに4年生まで籍を置きました。名池小学校に現存する彼女の学籍簿が、この事実を証明しています。
 行商を『たつき』とした母との生活で、彼女はその後も各地を"放浪"し、大正7年(1918)15歳のとき、広島県尾道市の市立高女へ入学したことで、一応の安定を見ました。
 しかし、在学中の生活は楽なものではなく、苦学の連続で、またそうした中に彼女の文学への新しい出発が芽をきざしたのでした。
 大正13年(1924)21歳で上京し、そして色々な職業を経験しながら文学活動の下地をつくり、その3年後に手塚緑敏と結婚しました。
 中央文壇で芙美子の名を不動にしたのは、昭和5年に改造社から出版した『放浪記』で、それ依頼、女流作家として次々に佳作を発表しました。
 『浮雲』『晩菊』を頂点に、数多くの作品を残しながらも、不思議に彼女は故郷下関を語らず、『一人の生涯』の中でわずかに触れているだけなのはさびしいことです。
 昭和26年(1951)、芙美子は朝日新聞に『めし』を連載中、48歳の生涯を東京で閉じました。
 田中町の五穀神社には、彼女の生誕記念碑が、そして、亀山八幡宮には"花の命は短くて…"の一節を刻んだ文学碑が建てられています。

(4) 二村 定一(ふたむら ていいち)1900-1948

二村定一  明治33年(1900)、下関市中之町で生まれました。
 大正4年(1915)に大阪薬学校に入学しますが、宝塚少女歌劇に熱中し中退。
 同9年(1920)、東京に出て浅草金龍館・根岸歌劇団の高田雅夫に弟子入りします。
 同11年(1922)に歌劇『カルメン』が大当たりし、根岸歌劇団の幹部俳優となります。
 同14年(1925)、アメリカジャズを日本語で歌った最初のレコード『テル・ミー』『スパニッシュ・セレナーデ』を吹き込んだ『あほ空』『アラビアの唄』『君恋し』が、いずれも20万枚を超える大ヒットで、『日本男性流行歌手の第一号』としての地位を固めています。
 同5年(1930)、榎本健一と共に仕事をするようになり、浅草のオペラ館に二村定一・榎本健一二人座長の『ピエル・プリヤント』を結成し、浅草レビュー黄金時代を築きました。
 しかし、戦争が激しくなるとともに衰退し、『慰問団の一座』として満州に渡り、戦後の同22年(1947)に引き揚げています。
 生涯に吹き込んだ曲目は、レコード会社16社で、200曲以上を数えています。
 同23年(1948)に亡くなりました。享年48歳でした。

(5) 藤原 義江(ふじわら よしえ)1898-1976

藤原義江  明治31年(1898)、下関市名池町で生まれました。
 父は英国人で、当時下関にあった瓜生商会の支配人をしていたリード。
 母は、琵琶芸者の坂田キク。
 義江が生まれて間もなく、母と子は流浪の生活を送ることになり、同42年(1909)、大分県の杵築から母のいる大阪へ移りますが、母の勧めで父のいる下関へ。
 しかし、父から東京で勉強をするように言われ、少年時代を東京で過ごしますが、早稲田実業のころ、野球に夢中になっていました。
 大正6年(1917)、オペラ歌手になることを決意。
 同8年(1919)、門司に住む父に会って、イタリア留学の承認を得ますが、父は次の年の1月16日に急死。イタリアには、父の勤めていた瓜生商会の支援で行くことになり、3月27日、下関の父の墓に参り、28日に門司港を出航。
 イタリアで勉学ののち、同10年(1921)、ロンドンの日本大使館にいた吉田茂の支援を受け、リサイタルを開催。
 大好評を受け、以後、アメリカでも好評を博すなど、オペラ歌手としての道を歩くことになります。
 昭和9年(1934)、それまで本格的なオペラのなかった日本に、藤原歌劇団を創設し、基礎をつくるとともに、振興に尽力。
 終生『われらのテナー』と愛称され親しまれました。  同51年(1976)に亡くなりました。享年77歳でした。

9.地域内の主な行事 −歴史で海峡の四季を彩ります−

地域内の主な行事

維新・海峡ウォーク 維新・海峡ウォーク

先帝祭 先帝祭

凧揚げ大会 馬関名物 凧揚げ大会

朝鮮通信使 朝鮮通信使行列再現

耳なし芳一まつり 耳なし芳一まつり

源平ナイト 源平ナイトin下関

節分祭 亀山八幡宮 節分祭

亀山能 亀山能

花火大会 亀山八幡宮 花火大会